天六は豚一も旨いね

夜、給料を取りに梅田に行った帰り、天六の洛二神のラーメンを久し振りに喰う。
独特の魚臭いラーメンで旨いのだけど、独特なだけにあれを食べたい体調や気分の時に天六周辺にいるというタイミングに巡り会わず随分とご無沙汰だった。けど旨いな、やっぱり。

どうもblogってのがいま一つよく分からない。分からないながらもそのblogてえところのもんでこうして日記ともつかないような日記を書いていて不都合はないのだから別に困ることもなく、また積極的に理解を深める努力をしているわけではないので分からなくても当然なのだが、しかし本当に世の中は僕の知らないことばかりだなあ、と馬鹿丸出しで半分口を開けている夜更け。

id:aikawa8823さんの日記(blogと言うべきなのか?)が無茶苦茶面白い。
どう面白いのかを説明するのも野暮なので、一読しかるべしなのだが、この人の卓越したストーリーテリング能力は何というのかもう絶望すら覚えるくらい羨ましい。日記を読むとどうやら新潮の新人賞を狙っているらしいのだが、個人的には長編より短編で力を発揮する書き手なんじゃないかと思う。
それにしてもよくもこんなに身の回りにいろいろと起こるものだな。
これを読むのがここのところの日々の楽しみの一つである。

気持ち悪い男、スウィング・ガールズを見る。

ジャズやるべ♪

何となく沈みがちで心の黄ばみのようなものがどんよりと広がっているような、そんな気分でいるのだが、何がそんな風にさせるかと言って具体的にこれといったものはなく、うっすらとながら日々連綿と積み重なってゆく将来や現状に対する不安や書いても書いてもなかなかに納得のゆく形で纏まらない戯曲に対する焦りなどが綯い交ぜになって淀んでいることに発するものが恐らくそうさせるのだと、思いながらも単純に最近あまり近しい人と会って話していないからかもしれないとも、また同時に思うわけだが、それでいながらとにかく暇があればアルコールを摂取しながら読書するか摂取しながらビデオ見るか摂取しながら書き物するかというちっとも晴れの方向に行かないインかアウトかと言えば思いっきりインで陰で塞ぎ込みがちな日々を粛々と過ごしており、そんな中だったものだから「ジャズやるべ♪」の染み込み方ったら大変なものだったわけなのです、「スウィング・ガールズ」は。
はっきり言って映画そのものの構成は「ウォーター・ボーイズ」で確立したフォーマットで、シンクロの部分をスウィングに置き換えただけっちゃだけだし(焼き直し、というより矢口の芸風として俺は容認するんだが)、ストーリーや設定やらといった部分の整合性無視で「好きなシーンだけ撮って繋げてみました」と言うような矢口史靖演出独特のデフォルメと省略に見られるある意味の自主製作映画臭さも好き嫌い別れるところ(俺は大好きなんだが)だろうと思うので、映画というものをシビアに鑑賞する向きは眉をひそめる種類の作品なのだろうと察しられるのだが、その開き直り具合が寧ろ今の俺にとってはとても心地良く、特に主演の上野樹里演じるところの友子の恐らくバケツにナミナミ満たした重油をぶちまけてもひとかけらも罪悪感を覚えることなくカラカラ笑っているだろう(いやもちろんそんなシーンはないんだけど)とも思える明るさがとてもいいのだ。どうも今まで上野樹里には野暮ったい芋ねえちゃんなイメージしかなかったのだが、それがこの映画では巧いこと嵌り込んでいる。
上野ばかりではなくスウィング・ガールズ&ア・ボーイの一人ひとりが本当に生きてることそのものを楽しんでいるがごときに演じていて、その辺りの日の当たるところに文字通り光明を見いだしたような気がしたのです僕は、ってって何だか気持ちの悪いことを書いているような気がしないでもないのだけどいいや気持ち悪くて。
しかしなんですな、本仮屋ユイカの演じるところの「無口で控えめでいながら芯の強いところのある眼鏡っ娘」ってキャラはオタク心に訴えること火の如しで狙いすぎててちょっと引くぞ。恐らく矢口史靖の好みなのだろうけど。
ちなみに俺は矢口作品では「ひみつの花園」が一番好きです。この作品も、というか矢口作品全てがそうかもしれないけど、脚本が弱いところはあるにせよ矢口史靖という人は殊に女性キャラクターを立たせる演出に独特の強さがあって、「ひみつの花園」の西田尚美なんか死ぬほどキュートで参ります。本気で付き合いたいと思ってしまうくらい可愛いんだこれ、ってって何だか気持ちの悪いことを書いているような気がしないでもないのだけどいいや気持ち悪くて。

バス宇都宮発地獄行

祖母の葬儀も終え二十三日朝に帰阪。その際、宇都宮から阿倍野まで直通という便利さもありまたいつもと違う経路で帰るのも面白いとも思い、初めて深夜高速バスというのを使ってみた。しかしあれ、俺のような巨人族の乗るものではないな。気巧の人がトランクに填り込んだりする芸を見せるじゃないですか? あれと同じような絵面だと思って頂ければ八割方間違いない。尋常の体格の人でも狭苦しいだろうスペースに無理矢理体をねじ込んで、添乗員に酒飲んじゃ駄目って言われたのでやるせなくウーロン茶なんぞを舐めていた。
まんじりとなくしながらもうとうとしかけると、慣れないバスの旅でむずかった四五歳と思しき子供の声が聞こえてきて眠りを妨げる。一体にそんな幼児を持つ親が何を思って深夜高速バスになんか乗るのか、とその神経を心の奥底から疑って止まない。どう考えたってあんな居心地の悪いコンディションで子供が大人しくしていられるわけがないじゃないか。
間断なく「ママァ〜」だの「パパァ〜」だのエグエグ言う声が聞こえてくる。
「ああ、ここにあった。地獄はここにあった」と半ば観念し、狭い俺用スペースの許す限りゴロゴロ蠢きながら「早く阿倍野にたどり着け。走れ、とにかく走れよバス」と祈り続け、十数時間の旅をまんじりともなく過ごした。恐らく、というか確実に、もう二度と乗らないと思う。やっぱり電車が一番だな。鉄道万歳。

それかがケチの付けはじめか、大阪に戻ってほぼ一週間経つがまんじりともしない気持ちはゴーインオン。日記書くのすら面倒なほどゴーインオンだったのだが、一昨日、映画「スウィング・ガールズ」を見て少し持ち直したのでその辺りのことは明日書こうかななんて。

祖母が死んだりなんだり

昨日祖母が亡くなった。老衰で苦しむこともなく静かに息を引き取ったという。九十での大往生だが、しかし、どうにも実感が沸いてこない。
その知らせを母、つまり祖母にとっては娘なのだが、から涙声まじりに聞き「ああそうなんだ。長くないとは思ってたけど、こんなに早いとは」とどうにも淡泊に受け取ってしまった。
まあ、瞑府魔道に生きるしかない俺としては、ってこないだ見た「子連れ狼」最終回の影響があからさまな言い草で恐縮だが、通夜葬式でほぼ今週一杯大阪を留守にするわけで、今週入っている仕事がキャンセルになってしまい、些か懐具合が厳しくなるところをどうしたものか、と薄汚いことを勘案してみたりもする。
キャンセルした仕事のその後の段取りなんざをあっちこち電話したり電話待ったりしているうちに「ああ、あんなに可愛がってくれたのに、その死に当たってこんな下らないことであくせくしてるなんて、俺はなんて不肖な孫なのだろう。何一つ孝行をできぬうちに死んでしまったというのに」という感慨が浮かんでくるものの、悲しいとか寂しいとかいった気持ちが浮かんでこない。そういうものなのだろうか。
去年の春、最後に会った弟の結婚に際して親戚が集まっての食事会。その時「おめもははえく嫁サ貰え。貧乏サしてだってどうにかなんだがらはえく嫁の顔サ見してみろ」と言う祖母に「嫁の顔サ見てんなら、婆ちゃん、もちっと長生きして貰わなきゃなんなかっぺ」と返したものだがそれも叶わず仕舞いだった。尤も結婚する予定なんかこれっぽっちもないんだけど。

子供の頃「病院に行くついで」と言っては末の娘の嫁ぎ先である我が家によく泊まりに来たものだ。ガンプラ最後期世代の俺や弟がプラモを作る様子を見ていてのことだろう、訪れるたびに土産にプラモデルを買ってきてくれるのだが、これがかなりトンチンカンな代物で、ガンガルとかあの手のなんだか分からないオリジナルロボットなのだ。きっと病院の売店か何かで求めてきたものなのだろうと思う。子供なので正直、そんなものを貰ってもさほど嬉しくはないのだが、しかしそんなことはどうでも良かった。何より大好きな婆ちゃんが来るのだから。
祖母の来る夜は、大抵すき焼きだった。「婆ちゃんはいいがら、婆ちゃんの分もおめら喰え」ともそもそ食べ物を噛みながら祖母は言う。
与えてくれたものの百分の一も千分の一も返せないうちに祖母は逝ってしまった。そのことが悔やまれてならない。
せめて意識がなくなる前に、最後に一度だけでも会っておきたかったと、考えても栓のないことばかり考えてしまう。
考えてしまうが、それが悲しいとか寂しいとかそういうものなのか、それはよく分からない。

あまり湿っぽいことをここに書いても仕方がないのでこの辺にしておこう。これから長旅だというのにあまり眠れずに朝を迎えてしまった。

先週イワンに誘われて京都市美術館に行ったり、「華氏911」を見たりいろいろあったのだが、戯曲を書き進めている今、日記を書くのが面倒臭くなりまたもやしばらく放ったらかしにしてしまっていた。
そう、戯曲が進んでいるのだ。底パイルロケットの公演用の台本。稽古も始まっていないのに、そもそもまだ公演の企画もきちんと決まっていないのに、書き進められるなんて奇跡ではないかと自画自賛してみる。
あまり詳細を書くとえみり大元帥に怒られるので控えるが、書くうちにアイデアが枝葉を伸ばしてゆく快さを味わっているところである。書いていて楽しいのだから、見ていても楽しいものにできるだろう、とこれまた自画自賛
こんなに楽天的だと、どこかで自分自身に足を掬われないかと不安にならないでもないが、調子のいいときはしばらく調子のいいままで泳がせてみようかと。

ところで、相武紗季かわいい。超かわいい。あんなにかわいいと犯罪だ。
ミスタードーナッツコンタクトレンズのCMで見かけるたびにキュンとしてしまうが、同時にそんな二十九男の気持ち悪さに身震いもする理性的な俺。

結婚式、及び温い風に熱い汁

少し前のことだが、週末のことを。
四日、友人Aの結婚パーティーに。天保山にあるベイサイドジェニーというライブハウスで、ステージでは立て続けに何かのライブが行われる中で三時から十一時までという盛大かつ長大なるもの。
いやしかし、赤犬(友人Aの所属するバンド。この日はこの赤犬が中心に仕切っていたよし)はパーティーバンドだな。こういう場で長時間飽きさせないのはお手柄(とはいえ無論彼らのみのお陰、というわけではないだろうが)。
こういう場というのは往々にして同窓会の様相を呈するもので、案の定大学時代の友人を中心に久し振りの顔に随分と会った。こんなに「最近なにしてんの?」なんて言葉を口にしたのは久し振りだな。
約七時間ずっと飲みっぱなしでさすがに酔っ払った。色々な人と色々な話をして、お陰様で楽しい時を過ごさせて貰った。近年になく良い結婚式。こんなに大勢の人が集まり、心から暖かい雰囲気でパーティーを行えるのも、Aの誰にでも好かれる人徳の成せる業なのだなと感慨しきり。あれはもう六七年前になるだろうか、家賃を踏み倒してばっくれるAの引っ越しを手伝ったあの夜を、あの夜逃げの情景をうっすらと思い起こしながらそんなことを思った。
新婦Yちゃんの見違えるほど可愛く綺麗で素敵な姿を見るにつけ、結婚式というものは矢張り女のためにあるものだなという感を強くした。
その後一度帰宅し、二次会のバーに繰り出そうと思うも、ちょっと横になったことが災いしすっかり眠り込んでしまい起きたのが翌朝八時という有り様。こういうのってどういうわけか物凄く悔しい。

翌五日、rishuの誕生日を祝い、二人きりで(というのが異常な気がしないでもないけど)近所の居酒屋・十六夜へ。
以前入れっぱなしにしたままだった焼酎のボトルや、お店からの誕生日プレゼントであるボトルワインなどをしたたかに飲み、さすがに酔っ払いさて帰ろうか、というところでロビンやマルムシ、リョウ、イワンが来店。さて今からという彼らに少し付き合うも、その時点で七時間も飲み続けていた上に、まだ若いせいか少し飲み辛かったワインをボトルで空けたせいもあってすっかり疲れてしまい一人で早々退散。ワインが効いたのか、悪酔いをしたらしく店を出た途端に気持ち悪くなり、チルチルミチルがごとく道々に…と、これ以上書くのは自粛。
飲んでばかりの週末でしたとさ。

ちょっと涼しくなりかけたかと思うと台風の野郎が生温い風を運んできやがる。それにしても台風、多すぎだろ。今年は台風の当たり年なのか? 蒙古軍でも攻めてきてるのか? なんて思いながら洗濯物を取り込む夕暮れ、もう既にして洗濯物は暴風に吹かれよれよれである。さすが俺が干しただけあってよれよれのへろへろ。今日は玉葱と若布の味噌汁を作り、大根の味噌漬とともにボソボソのお米で夕餉をしたためるへろへろぶりでもある。
最近、香の物と熱い汁さえあれば納得してしまい、旨いものを喰いたいという気があまりせず、その代わり一緒に食卓を囲む誰かが恋しく思うのは、何かが退行しているせいのように考えている。

京都慕情

きせる

週明けから物貰いができて左目が腫れて痛い。
今日になってやっと収まってきたが、それまでは目覚めた時に女子大生なら「エッ!ウソォ!!」と叫ぶほど目やにが出る癖に痛みも腫れもちっとも引かず、このまま目が潰れてしまうのではないかと思った。
お米を無駄にした覚えはないのにどうしたことだろう?
お米といえば、最近無洗米を食べているのだがこれが恐ろしく不味い。どんなに水加減を変えてもばさばさで、味もしないくせに何だかイヤに糠臭い。無洗米というものは初めてなんだが、こんなもんなのか、それとも俺が買ったものが特別不味いのか分からないが、お米を炊くのが憂鬱に思えるほどに不味い。
そもそも「無洗米」というのはおかしくないか? 既にして洗ってある米なのだから「既洗米」とでも言うべきじゃないか?これが屁理屈だと言うのなら、メリケン駄菓子は「無香料・無着色」か?なんてって俺は臍曲げるぞ。
臍を曲げながらも不味い無洗米を捨てもせずに大切に食べるのは、俺が人格者だからでもなんでもなく、目が潰れるのが恐いからだ。なんとなれば今週は物貰いを以てお米を粗末にするなと警告を受けているのだから。戦々恐々だ。幽霊がいるときのオスメント君並にブルブル震えながらモソモソ味のない米を噛む寂寞。咳も出やしなくてもひとり。

さて未だ物貰いが出来ぬ先週末、金曜土曜と本番のあったdracomの舞台「特集ハムレット」のビデオ撮影を手伝いに京都造形芸術大へ。両日とも舞台は素晴らしい出来。外に外にと意識が広がっていって仕舞いには客を煙に巻く、という俺が知っている限りの今までのdracomとは対照的に、「ハムレット」という縦軸が効いているせいか、一点に収斂してゆくという今までにない演出で非常に見やすいものに仕上がっていた。コンテスト出品作品であることから、dracom免疫のない観客が多いだろうことを見越した上でそうしたのだろうか? 殊に役者それぞれのソロでの芝居が秀逸で、もちろんそれぞれのパーソナリティーに因るところも多いのだろうが、矢張り収斂してゆく方向の演出が効いているのだろう。ただ難を言えば、ソロプレイが良い分アンサンブルにムラがあるように見受けられた点。もっと錬れていれば、と少し残念。芝居なのかコンテンポラリーダンスなのか判然としない独自のパフォーマンスである筒井さんの舞台は、それが一見散漫に見えるだけに、実のところ役者同士の呼吸を如何にタイトに合わせるかに依るところが大きく、その一点のみが舞台の出来不出来を左右すると言い切ってしまってもあながち間違いじゃないのだろうか、と、今回初めて外からの立場でdracomの舞台を観て俺は思ったのだけどどうなんだろう?
と、まあ、手前を棚に上げて偉そうなことを思いながらも厚かましく打ち上げに参加。一次会を終え、疲れ切った皆々がぞろぞろ帰った後、二次会にまで居残り和民で朝まで飲んだくれる。
帰りに乗った始発の阪急の車内で死んだように眠り込んでしまい、起きると梅田をバウンドして折り返しの河原町行きの普通車内。自分の間抜けさ加減にウンザリしながらも茨木市駅で梅田行きに乗り換えるもまたもや眠り込んでしまい、梅田をバウンドしたあと今度は淡路で目覚める。しかし起きないもんだなあ。いつになったら梅田に着けるのだろう。まるでサイコロの目がぴったり出ないと上がれない双六だ。結局河原町から梅田に着くのに二時間半くらいかかってしまった。
このあと物貰いもできるし、俺は京都に呪われてでもいるのだろうか?

京都へ行ったついでに、と、初めて煙管専門店Tへ。クロームの延べ煙管を買う。延べ煙管ってのは、通常竹で出来ている真ん中の部分も全て金属でできている煙管のこと。
吸い付くようにたなごころにすんなりと収まり、使い心地は素晴らしくよろしい。手から放しがたく、そのせいかここのところ暇さえあれば煙草ばかり呑んでいる。煙草を詰め、火を点け二三服して、灰をポンと捨てる、この繰り返し。まるでライン作業だが、こんなに呑んでいてもちっとも飽きない。刻み煙草というものはどうしてこんなに旨いのだろうか。

ぽっぽー

残暑というのは飽くまで去りゆく夏の残り香のようなものであって、そう思えば朝夕は比較的過ごしやすくなってきたし、やはりこの暑さは残暑と呼ぶべきかなと思いかけていたものの、今さっきあまりのことに目覚めてしまったこの熱帯夜を過ごすにつけ矢張り残暑などという生やさしいものではない、そんなブルジョワ的風雅とは無縁な気候であってもしやこの酷暑は永遠に続くのではないかと、眠りを妨げられた苛立ちに後押しをされ不安を覚える。

暑さに目覚めると、粘度の高い寝汗とともに悪夢の余韻が体にまとわりついていることに気付く。そういう場合に見る悪夢というものが、何か恐いような思いをするような種類のものではなく、決まってやきもきして落ち着かない心持ちにさせられるような夢なのだ。例えばそうだな、何かの作業を完遂させんとしているのだが途中で台無しになり初めから遣り直させられ二度手間に歯がみさせられるような、そんなイライラする夢。暑さのイライラと噛み合ってそんなものを見るのだろう、実に気分の悪いイライラスパイラル。寝ても覚めてもイライラしっぱなし。

昨日、テキーラを買ったのだが、自転車の籠から落として蓋を破損してしまい、地面にどくどく流れる琥珀の液体を絶望的な気持ちで眺めた。眺めながら、なんとなく落として台無しにしてしまうことが初めから分かっていたように思った。だからといってそのまま眺めているだけでなく、主観としては延々と眺めていたように思える呆然も実のところ数秒のことで、慌てて中身の三分の二はまだ無事で蓋が壊れてしまったもののそれ自体は無傷であった瓶を拾い上げたものだが、その吝嗇ぶりも何ともはやダメな感じがしてしまう。

そうして最早早朝の今、イライラしながら起きて、落としたテキーラを飲んでいるのだから、駄目だ絶望だと言ってもまだ大丈夫な気がする。そうそう、いつも人生の明るい側を見ていよう、とはこれモンティ・パイソンか。

昨日パソコン設置の仕事で行った郵便局の人がその優美なシルエットでお馴染みの蒸気機関車C57の形のネクタイピンをしていた。年の頃なら三十デコボコの自分と同年配、神経質そうな細面に眼鏡をかけた「N!」と呼べば「ゲージ!」と応えそうな佇まいの彼に、「貴婦人ですね」と話を振ってみようかとも思ったが、なんとなくしそびれてしまった。一期一会もいいところのそんな人と鉄分の高い絆で繋がれてどうする、と思ったのだ。しそびれて正解だったと、今になって思う。