いろいろある

そりゃまあある。いろいろ。
こう面倒くさがって書かないと、日記を書こうにも何を書こうかと少しく悩んでしまわないでもない。
で、いろいろあるんだけど、金曜日に大変なことがあって、と勿体を付けても仕様がないので書いてしまえば、従姉の連れ合いに不幸があった。四十五になったところだろうか、あまりに早すぎる最後。
従姉と共に丸で兄弟のように付き合ってきた人であったために、またその娘らも丸で姪同然に接してきたために、突然の出来事を気持ちの上でなんと片付けたものか戸惑っている。
仕事の都合で明日の葬儀に参加できないのが申し訳ない思いもあるが、後に残された妻に娘になんと言葉を掛けていいものか見つからず、その見つからぬ言葉を前に彼女らの居たたまれぬ姿を目にせずに済むことに、卑怯な安堵を覚えずにおれない。
長く患っていた病気のこと、仕事のことで悩んでいたという故人の胸の内を推し量ることは本人ならぬ身にはとうてい出来ないが、例えば現実とは何か隔絶したところにある死ということそのものに対する気持ちのようなものは、欠片ほどであるかもしれないが共有できる気がしないでもない。しないでもないが、だがしかし、夫に父に死なれた家族という現実を前にしたときのその気持ちというものは、やはり生ける身としては、そこで生きることを選んでしまうだろう身としては、もやもやと胸の中で形を成すことはない。殊にまだ幼い娘らはその気持ちと現実の間にあるもやもやをどう受け止めてゆくのだろうかと、それを思うと胸が痛む。

九月の祖母の通夜の葬儀場に泊まり込む俺に付き添ってくれ共に杯を傾けたことが思い出される。アルコールに押されたせいかとても希望的とはいえない家族感や人生観を吐露した俺に対し、養ってゆかねばならない家族に対する愛情、覚悟や希望というもの訥々と語ってくれた。その時の、栃木北部特有の訛りで話す穏やかな表情が、去来して止まない。